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マガ9対談(蓮池透さんと森達也さん)、読み応えありました。こんな刺激的な対談が読めるマガジン9条って、すごいなー、スタッフ、がんばってるなーと、私なんか、すっかり一読者として感心した次第です。

お2人も言っておられたように、北朝鮮への経済制裁が拉致被害者を取りかえす手段になるとは、私も思えません。

ついついドイツと比較してしまうのですが、冷戦時代の西ドイツでは、戦後長らく続いた保守政権からドイツ社会民主党主導のそれに交代すると、「東方政策」が始まりました。

当時のヴィリー・ブラント首相は、東ドイツをはじめとするソ連・東欧諸国に対して敵対姿勢を貫くだけでは現状は何も改善されないと考え、緊張緩和をめざす外交を展開したのです。それを彼の外交ブレーンだったエゴン・バールが「歩み寄りによる変革=東方政策」と名づけます。

東西ドイツ間の往来の改善、ソ連およびポーランドとの軍事的緊張の緩和などを実現した東方政策は、当初は西側同盟国から疑惑の目で見られていました。アメリカの安全保障担当補佐官だったヘンリー・キッシンジャーはブラントの頑固なまでの東側への接近に不快感を示したし、ドイツ国内でもブラント外交は「ソ連に対する弱腰」と批判されました。

しかし、ブラント、そして彼の後を引き継いだヘルムート・シュミットらドイツ社民党政権の歩み寄りと外交・経済関係の緊密化が、平和裏のドイツ統一につながったことは明らかです。

こうした歴史は、対北朝鮮外交にも参考になるのではないか。

安倍元首相や中川元金融担当大臣、そして麻生現首相といったいわゆる「対北朝鮮強硬派」は、自国民に向かって他国の悪口を言っているだけで、具体策を練っているとは思えません。彼らのコメントを聞いていると、自分の家族に対して、他の家の親父の悪口を言っているような、卑近なイメージしか湧かないのです。

ヴィリー・ブラントは1913年、北ドイツ・リューベックで、(世襲とはまったく無縁の)私生児として生まれました。1933年4月、ヒトラー政権を嫌いノルウェーに亡命。この時以来、彼は本名のヘルベルト・フラームから「ヴィリー・ブラント」を名乗ります。戦後は西ベルリン市長を務めましたが、その時代にベルリンの壁が構築。彼は常に全体主義と向き合ってきた政治家でした。
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